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2012年05月18日

赤座氏館址

 新道の居館址

 中世末期の武将赤座氏は、鎌倉時代に赤座九郎なる者が将軍に仕え、のち北条氏を経て室町時代に斯波氏の家臣となり、寛政年間(1460〜66)の影秋の時、今庄西方の新道に居館を設けた。

 居館址は、新道の弥谷川の下流から、東の畑まで、南は町道を境として「十時館内」にあった。

 なだらかな山裾は台地をなしており、南北二十八間、東西二十五間の居館や馬場、堀があったと伝えられている。

 居館背後の山地は「殿城庵」といい、赤座氏の菩提寺である棟岳寺があった。

 寺跡は「寺名」の字名とともに残っている。

 また、古い五輪塔などもある。

 その後、棟岳寺は赤座氏の移居に従い今庄に移った。

 なお、この南方の山を越えたところは孫谷で、六十六字西山の二百メートル級の台地にも赤座氏の居館があった。

 これは新道の居館の別館に当たり、いわば搦め手を守る要地でもあたった。

 ここにも古い五輪塔などが残っている。

 新道の山中に残る墓
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 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 


 
posted by 兵三(ひょうさ) at 18:21| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

燧ヶ城址(2)

 南北朝・戦国期の山城

 南北朝の延元元年(1336)には今荘(今庄)浄慶が居城とし、足利方の斯波高経の軍に味方して、そま山城から金ヶ崎城に戻る新田方の新田義顕、脇屋義助らの軍の行く手を阻もうとしたことが「太平記」に見られる。

 その後天正三年(1575)、織田信長の越前征伐には、一向一揆の総大将下間頼照(「朝倉始末記」では木ノ芽峠の観音寺丸城)が立てこもり抵抗したが破れている。

 三丁には今も投石に使ったという巨岩が転がり、砦や本丸跡には石垣や、その周囲には空堀、切り堀などがあり、山城の址がよく分かる。

 山頂からは視野一杯に南越の山並みが広がり、眼下に今庄の街並みを見下ろす景観は素晴らしい。

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 


posted by 兵三(ひょうさ) at 03:09| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする