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2012年05月31日

赤座氏館址(3)

 今庄の居館址

 居館はその後、新道から今庄に移したが、その時期はつまびらかでないが、天正三年(1575)吉家が信長に仕え以降うと考えられている。

 「越前国城蹟考」に「今庄村際寅卯之方(東北東)畑之中東西二十五間南北二十八間」とあり、これに従えば今庄の七十四字北立石、八十四字南立石の地に比定されるが、現在は今庄駅構内にあたり、その遺構をとどめていない。

 六代吉家の治世を示すものとしては、吉家判物に見える大桐村への灰焼商売免許(「大桐区有文書」)や、宅良慈眼寺塔頭月そう寺の禁制(「慈眼寺文書」)が知られるが、詳細は不明である。

 吉家は慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに、西軍の敦賀藩主大谷善継に従い、のち東軍の小早川秀秋についた。

 このため戦後、領地を没収され流浪した。

 翌六年、加賀の前田利家に二千石で召し抱えられ、家康をはばかって母方の姓永原と改め加賀に移ったという。

 それに伴い棟岳寺の寺基も金沢に移された。

 今庄の棟岳寺はいったん廃寺となったが、その後再建され、赤座氏の福菩提寺となっている。

 今の棟岳寺
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 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。 

 


 
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2012年05月28日

今庄の鉄道物語

 初めに

 これから今庄が鉄道の町としてどのように生まれ、どのように変遷していったかを書いていきます。

 江戸時代には北国街道として今庄は栄えました。

 時代が明治時代になっても今庄の重要性は消えず、かえって国鉄(日本国有鉄道)の機関区として栄えました。

 そして、現在は機関区としての役割は終わり、今では普通の駅になってしまいました。

 でも、駅構内には昔の面影が残っており、栄えた時代を知る人にとっては懐かしい駅です。

 そんな今庄をめぐる鉄道物語を連載で書いていきます。

 今の今庄駅
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 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「今庄駅をめぐる鉄道物語」から許可を頂いて引用しています。

 


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2012年05月27日

赤座氏館址(2)

 赤座氏の系図

 赤座家は赤座但馬守影景秋を祖とし、六代吉家の天正年間まで百三十余年間、今庄町域の大半を領地として支配していた。

 「赤座家系図之写」(島崎家文書)によれば、初代景秋は足利義政、義尚に仕え、二代長秋は父母の供養のため棟岳寺を建立。

 三代治秋、四代長久になると足利将軍は亡んで、織田信長に仕えた。

 五代長悦は長島の一向一揆に出陣している。

 六代吉家は(備後守久兵衛、流布書には直保とある)な信長、秀吉に仕え、数度の軍功をたて名をあげた。

 文禄四年(1595)八月三日付の秀吉朱印状知行目録本書によれば三千二百石を所領したことが記載され、これは瀬戸、杉谷など一部を除く今庄全域にあたる。

 続く・・・・・。

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。


 


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2012年05月18日

赤座氏館址

 新道の居館址

 中世末期の武将赤座氏は、鎌倉時代に赤座九郎なる者が将軍に仕え、のち北条氏を経て室町時代に斯波氏の家臣となり、寛政年間(1460〜66)の影秋の時、今庄西方の新道に居館を設けた。

 居館址は、新道の弥谷川の下流から、東の畑まで、南は町道を境として「十時館内」にあった。

 なだらかな山裾は台地をなしており、南北二十八間、東西二十五間の居館や馬場、堀があったと伝えられている。

 居館背後の山地は「殿城庵」といい、赤座氏の菩提寺である棟岳寺があった。

 寺跡は「寺名」の字名とともに残っている。

 また、古い五輪塔などもある。

 その後、棟岳寺は赤座氏の移居に従い今庄に移った。

 なお、この南方の山を越えたところは孫谷で、六十六字西山の二百メートル級の台地にも赤座氏の居館があった。

 これは新道の居館の別館に当たり、いわば搦め手を守る要地でもあたった。

 ここにも古い五輪塔などが残っている。

 新道の山中に残る墓
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 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 


 
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2012年05月13日

燧ヶ城址(2)

 南北朝・戦国期の山城

 南北朝の延元元年(1336)には今荘(今庄)浄慶が居城とし、足利方の斯波高経の軍に味方して、そま山城から金ヶ崎城に戻る新田方の新田義顕、脇屋義助らの軍の行く手を阻もうとしたことが「太平記」に見られる。

 その後天正三年(1575)、織田信長の越前征伐には、一向一揆の総大将下間頼照(「朝倉始末記」では木ノ芽峠の観音寺丸城)が立てこもり抵抗したが破れている。

 三丁には今も投石に使ったという巨岩が転がり、砦や本丸跡には石垣や、その周囲には空堀、切り堀などがあり、山城の址がよく分かる。

 山頂からは視野一杯に南越の山並みが広がり、眼下に今庄の街並みを見下ろす景観は素晴らしい。

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 


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2012年05月06日

燧ヶ城址

 燧ヶ城の戦い

 JR今庄駅を下車、歩いて5分ほどで燧が城址の登り口の新羅神社(しんらじんじゃと読みます)に着く。

 山頂までは20分ほどの道のり。

 城址は愛宕山(標高270メートル)の山頂にある。

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 城址から見える今庄市街
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2012年05月03日

藤倉山と鍋倉山(3)

 藤倉山と鍋倉山への登山コース

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 JR今庄駅から近世の面影の残る町並みを見ながら右に進むと、八十八カ所の登り口がある。

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