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2010年03月13日

8水戸浪士のこと(3)

今庄宿と浪士

 燧より今庄宿に入るには、日野川を渡らねばならないが、「橋長さ30間(54メートル)あり、この橋一本なり。雨降り大なんぎ、夜に入って付る也」とある。(水戸浪士日記)

 当時の小鶴目橋のことと推定される。

 砲車を引き、の手綱を引いた浪士たちは馴れない坂道を越え、凍てつく川を渡らねばならぬ難行軍であった。

 寒さと飢えと披露が容赦なく彼らを襲った。


 さて、燧から旧道を通りめっとり坂を越して小鶴目橋を渡り今庄宿に入ったのは12月9日も夜になっていた。

 翌10日も今庄に滞在した。

 今庄の到着前日、池田方面に大火があり浪士が到着すれば、全村が焼き払われるとのデマが飛んだ。

 このため人々は雪の中を家財道具を持って逃げ、宿は無人であった。

 食もなく、寒さも厳しく浪士たちは怒りにまかせて抜刀し、柱に斬りつけ、障子に落書きした。

 こうして、浪士たちはやり処のない憤懣を紛らわせたのであろう。

 今も数軒の家に刀傷や遺墨が残っている。

 刀傷が残る京藤家
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 今庄宿へは浪士たちの出発後、再び諸藩のの兵が入って警護したが、浪士後戻りの虚報に、武器を捨て、あわてて物置や雪隠(トイレ)などに隠れた話も残っている。

 続く・・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


posted by 兵三(ひょうさ) at 09:55| Comment(2) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この水戸浪士の件は悲しい出来事で、各地で悪事もあり(皇国尊王とは言いながら)敦賀で全員幕府命令で処刑されたので、あまり触れたがらないのだよね。今庄もどちらかと言うと被害者じゃないでしょうか。歴史の重い部分だけど、もう少し軽い話題を御願いします。  西新宿より
Posted by こーちゃん at 2010年03月16日 16:09
こーちゃんさんへ

 水戸浪士立ちはその後、敦賀に行って幕府に捕らえられるわけですが、その史跡が新保と松原に残っています。

 新保には陣屋の一部が残っていて、記入帳を見ると浪士たちの子孫がはるばる茨城から大勢来ていることが分かります。

 また、松原では浪士たちが閉じこめられていたニシン小屋には遺品が残っています。(鍵がかかっていてガラス越しにしか見られませんが)
 近くには武田 耕雲斎の像もあります。

 
Posted by ケント at 2010年03月17日 04:24
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