kamiitadori aki .jpg

2010年03月22日

8水戸浪士のこと(4)

二ツ屋宿と浪士

 二ツ屋宿には3日前に予告があったので、浪士たちおために1ケ所に白米2斗、味噌などの食料を集めた。

 万一火事なってはと、雪中に穴を掘り種籾にむしろを巻いて隠した。

 老人、病人は山中の炭焼き小屋や、小屋を建てて隠れた。

 足跡を隠すため、雪の上を箒ではいたという。


 浪士の要求に応じるため、当時9頭いた馬を置き、鞍、わらじを準備した。

 関所には福井藩より出張武士と、宿の足の達者な若者二人が当番として詰めていた。

 十一日十時頃浪士の先遣隊が雪の中を長蛇の列をなしてやってきた。

 裸やりでは関所の門を開くことは出来ないというと、彼らは懐から半紙を取り出し槍先に巻き付けて通過した。

 宿場は後続隊の食事の炊き出しや、牛馬を利用しての武具・荷物の運搬で、宿場はまるで戦場のごとくであったという「竹内嘉右衛門文書」

 こうして浪士は雪深い木ノ芽峠を越して新保に着いた。

 四十日間千キロメートルを超す長旅であった。

 しかし、そこには十二月はじめから幕府の命令で十数藩の兵、一万数千人が包囲していた。

 これらの指揮の総大将は、浪士の頼みとしていた徳川慶喜であった。

 浪士は新保で最初に出会った加賀藩に降伏し、翌年二月敦賀の来迎寺に設けられた刑場で、武田耕雲斎ら三百五十三名が処刑された。


 新保にある本陣跡
 sinnbo 07-013.JPG

 sinnbo 07-010.JPG

 sinnbo 07-009.JPG

 sinnbo 07-012.JPG



 続く・・・・・・。


  注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


posted by 兵三(ひょうさ) at 07:44| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。