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2012年05月06日

燧ヶ城址

 燧ヶ城の戦い

 JR今庄駅を下車、歩いて5分ほどで燧が城址の登り口の新羅神社(しんらじんじゃと読みます)に着く。

 山頂までは20分ほどの道のり。

 城址は愛宕山(標高270メートル)の山頂にある。

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 城址から見える今庄市街
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  寿永二年(1183)4月、木曾義仲を討つべく、平維盛・通盛を将とする平氏軍は兵十万を持って、琵琶湖の東と西の二手から燧ヶ城攻略に向かった。

 信濃を根拠とする義仲は越後の出陣していたが、国府に留まる余裕を見せ、信濃の住人・仁科太郎守弘や加賀の住人・林光明、倉光三郎らの率いる六千騎を燧ヶ城に派遣した。

 その軍勢は国府(武生)、大塩、鯖波、柚尾(ゆのお)坂、今城(今庄)まで続いたという。

 湯尾峠に残る石垣
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 湯尾峠に建つ松尾芭蕉の句碑
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 さらに、平泉寺(勝山市)の長史・斎明威儀(さいみょういぎ)も千余騎を従え、大野郡から池田越えして味方した。

 今庄は古くから北陸道の要衝の地であったので、義仲は仁科太郎らに命じ、平地からの標高百五十メートルの山頂に城を構築させた。

 「源平盛衰記」はこの城のことを「海山遠く打廻り越路遙かに見え渡る。盤石高く聳え挙がって四方の峰を連ね足れば、北陸第一の城郭なり」と記す。

 山麓はまた、能美川(日野川上流)と新道川(鹿蛭川)の合流点に当たり、義仲軍は石や大木で川をせき止めて、人造湖上の城に仕立て上げたのである。

 平氏の東路軍は近江から虎杖崩(いたどりくずれ、栃ノ木峠)を通り、西路軍は敦賀津、木辺山(きのべやま、木ノ芽峠)、を経て還山(かへるやま)に至り、ここで両軍が合流。

 燧ヶ城の義仲軍と対峙したが攻めあぐんだ。

 ところが、平泉寺の斎明が義仲軍に離反し、石や木を取り除けば湖水が引くことを平氏方に矢文で通報したので、これらを取り除いた平氏軍は一斉になだれ込み城や砦は陥落した。

 義仲の最前線基地である燧ヶ城を破ったこの戦いは栄耀を誇った平氏最後の勝利となるのである。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 

posted by 兵三(ひょうさ) at 06:26| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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