kamiitadori aki .jpg

2016年10月13日

古文書の保存

 今庄は宿場町だったので昔の文献が残っています。

 でも火事もまた多かったので残されていた古文書は燃えてしまっているので、限られたものではありますが・・・・・。

 その古文書をデジタル化するために写真撮影しています。

 白い台の上に来文書を広げて・・・・、
 kobunnsho (2).JPG
 
 ナンバリングをして撮影します。
 kobunnsho.JPG

 後で直ぐに分かるように番号を書いた栞を挟んでおきます。
 kobunnsho (1).JPG

 私には古文書を見ても何が書いてあるのか全然わかりません。

 でも見る人が見ればお宝が書いてあるのが分かるんでしょうね。

 どこかにお宝が埋めてあるっていうのもあるんでしょうか?



posted by 兵三(ひょうさ) at 06:08| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月31日

赤座氏館址(3)

 今庄の居館址

 居館はその後、新道から今庄に移したが、その時期はつまびらかでないが、天正三年(1575)吉家が信長に仕え以降うと考えられている。

 「越前国城蹟考」に「今庄村際寅卯之方(東北東)畑之中東西二十五間南北二十八間」とあり、これに従えば今庄の七十四字北立石、八十四字南立石の地に比定されるが、現在は今庄駅構内にあたり、その遺構をとどめていない。

 六代吉家の治世を示すものとしては、吉家判物に見える大桐村への灰焼商売免許(「大桐区有文書」)や、宅良慈眼寺塔頭月そう寺の禁制(「慈眼寺文書」)が知られるが、詳細は不明である。

 吉家は慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに、西軍の敦賀藩主大谷善継に従い、のち東軍の小早川秀秋についた。

 このため戦後、領地を没収され流浪した。

 翌六年、加賀の前田利家に二千石で召し抱えられ、家康をはばかって母方の姓永原と改め加賀に移ったという。

 それに伴い棟岳寺の寺基も金沢に移された。

 今庄の棟岳寺はいったん廃寺となったが、その後再建され、赤座氏の福菩提寺となっている。

 今の棟岳寺
 tougakuji 10-0906.JPG

 tougakuji 10-0908.JPG

 tougakuji 10-0905.JPG

 tougakuji 10-0902.JPG

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。 

 


 
posted by 兵三(ひょうさ) at 19:14| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月27日

赤座氏館址(2)

 赤座氏の系図

 赤座家は赤座但馬守影景秋を祖とし、六代吉家の天正年間まで百三十余年間、今庄町域の大半を領地として支配していた。

 「赤座家系図之写」(島崎家文書)によれば、初代景秋は足利義政、義尚に仕え、二代長秋は父母の供養のため棟岳寺を建立。

 三代治秋、四代長久になると足利将軍は亡んで、織田信長に仕えた。

 五代長悦は長島の一向一揆に出陣している。

 六代吉家は(備後守久兵衛、流布書には直保とある)な信長、秀吉に仕え、数度の軍功をたて名をあげた。

 文禄四年(1595)八月三日付の秀吉朱印状知行目録本書によれば三千二百石を所領したことが記載され、これは瀬戸、杉谷など一部を除く今庄全域にあたる。

 続く・・・・・。

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。


 


posted by 兵三(ひょうさ) at 21:24| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

赤座氏館址

 新道の居館址

 中世末期の武将赤座氏は、鎌倉時代に赤座九郎なる者が将軍に仕え、のち北条氏を経て室町時代に斯波氏の家臣となり、寛政年間(1460〜66)の影秋の時、今庄西方の新道に居館を設けた。

 居館址は、新道の弥谷川の下流から、東の畑まで、南は町道を境として「十時館内」にあった。

 なだらかな山裾は台地をなしており、南北二十八間、東西二十五間の居館や馬場、堀があったと伝えられている。

 居館背後の山地は「殿城庵」といい、赤座氏の菩提寺である棟岳寺があった。

 寺跡は「寺名」の字名とともに残っている。

 また、古い五輪塔などもある。

 その後、棟岳寺は赤座氏の移居に従い今庄に移った。

 なお、この南方の山を越えたところは孫谷で、六十六字西山の二百メートル級の台地にも赤座氏の居館があった。

 これは新道の居館の別館に当たり、いわば搦め手を守る要地でもあたった。

 ここにも古い五輪塔などが残っている。

 新道の山中に残る墓
 akazasi 12-05.JPG

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 


 
posted by 兵三(ひょうさ) at 18:21| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

燧ヶ城址(2)

 南北朝・戦国期の山城

 南北朝の延元元年(1336)には今荘(今庄)浄慶が居城とし、足利方の斯波高経の軍に味方して、そま山城から金ヶ崎城に戻る新田方の新田義顕、脇屋義助らの軍の行く手を阻もうとしたことが「太平記」に見られる。

 その後天正三年(1575)、織田信長の越前征伐には、一向一揆の総大将下間頼照(「朝倉始末記」では木ノ芽峠の観音寺丸城)が立てこもり抵抗したが破れている。

 三丁には今も投石に使ったという巨岩が転がり、砦や本丸跡には石垣や、その周囲には空堀、切り堀などがあり、山城の址がよく分かる。

 山頂からは視野一杯に南越の山並みが広がり、眼下に今庄の街並みを見下ろす景観は素晴らしい。

 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」から許可を頂いて引用しています。

 


posted by 兵三(ひょうさ) at 03:09| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月06日

燧ヶ城址

 燧ヶ城の戦い

 JR今庄駅を下車、歩いて5分ほどで燧が城址の登り口の新羅神社(しんらじんじゃと読みます)に着く。

 山頂までは20分ほどの道のり。

 城址は愛宕山(標高270メートル)の山頂にある。

 hujikurayama 11-0805.JPG

 城址から見える今庄市街
 hujikurayama 11-0806.JPG

続きを読む
posted by 兵三(ひょうさ) at 06:26| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月03日

藤倉山と鍋倉山(3)

 藤倉山と鍋倉山への登山コース

 八十八kasho 07-000.JPG

 JR今庄駅から近世の面影の残る町並みを見ながら右に進むと、八十八カ所の登り口がある。

 八十八kasho 07-001.JPG

続きを読む
posted by 兵三(ひょうさ) at 18:56| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月07日

藤倉山と鍋倉山(2)

 今庄宿の惣社 藤倉権現跡

 藤倉山の山腹には今庄宿の惣社としての藤倉権現が祀られていた。

 その中心に高さ3メートル、横5メートルの巨岩がある。

 神仏習合が御本体であったのだろう。

 昔は修業本位であった山伏も、招かれれば加持祈祷に赴いたり、別当となって神職に代わったりもしたのである。


 山麓には石組みの岩室(いわさか)や社壇、寺址、行状場らしい遺跡が所々に残っている。

 藤本浩一は、石室の一部の窪みは、仏像を安置する龕(がん)ではなかったかといい、上には屋根があったはずだという。

 藤倉山の山麓には懸崖(けんがい)や、多くの巨岩が目をひくが、藤倉権現の南側には高さ5メートル、横14メートル、前後2〜3メートルの大岩が二十数個も不規則に分布している。

 藤本浩一は「これはどうみても古代の盤座としか考えられない。磐座は構築されたものはないといって過言ではなく・・・・すべてが自然で人口の加わっていないのが磐座の本質である」(藤倉山遺跡考)という。

 磐座は古代における石信仰の一つで、考古学上から明らかな形で認められるようになったのは古墳時代に入ってからである。

 岩石の上面または座石を、神体もしくは神い出ます座所とみなしたのである。

 こうした巨岩を神護石とよんで山伏などは最も信奉したのであった。

 また、両山の山麓一帯は台地状をなし、その広さは二百町歩(約200ヘクタール)に及ぶ。

 灌漑技術の幼稚であった弥生時代の稲作には適した土地であったであろう。

 ここには古代集落が形成されていたともいわれているが、残念ながらこの時代の土器や銅器などの遺物は、まだ、発見されていない。

 大昔の北陸道も、この付近を通ったという。

 日野川の激流がぶつかる三か所山裾や、鹿蒜川がぶつかる愛宕山裾の急崖は、古代人の交通を遮断したであろう。

 また、扇状地性低地に位置する現在の今庄市街はの扇端は、日野川の氾濫源であり定住を許さなかったから、両山の山腹を通ったであろうことは充分考えられる。


  注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からの引用です。


 
posted by 兵三(ひょうさ) at 05:28| Comment(2) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

8水戸浪士のこと(4)

二ツ屋宿と浪士

 二ツ屋宿には3日前に予告があったので、浪士たちおために1ケ所に白米2斗、味噌などの食料を集めた。

 万一火事なってはと、雪中に穴を掘り種籾にむしろを巻いて隠した。

 老人、病人は山中の炭焼き小屋や、小屋を建てて隠れた。

 足跡を隠すため、雪の上を箒ではいたという。


 浪士の要求に応じるため、当時9頭いた馬を置き、鞍、わらじを準備した。

 関所には福井藩より出張武士と、宿の足の達者な若者二人が当番として詰めていた。

 十一日十時頃浪士の先遣隊が雪の中を長蛇の列をなしてやってきた。

 裸やりでは関所の門を開くことは出来ないというと、彼らは懐から半紙を取り出し槍先に巻き付けて通過した。

 宿場は後続隊の食事の炊き出しや、牛馬を利用しての武具・荷物の運搬で、宿場はまるで戦場のごとくであったという「竹内嘉右衛門文書」

 こうして浪士は雪深い木ノ芽峠を越して新保に着いた。

 四十日間千キロメートルを超す長旅であった。

 しかし、そこには十二月はじめから幕府の命令で十数藩の兵、一万数千人が包囲していた。

 これらの指揮の総大将は、浪士の頼みとしていた徳川慶喜であった。

 浪士は新保で最初に出会った加賀藩に降伏し、翌年二月敦賀の来迎寺に設けられた刑場で、武田耕雲斎ら三百五十三名が処刑された。


 新保にある本陣跡
 sinnbo 07-013.JPG

 sinnbo 07-010.JPG

 sinnbo 07-009.JPG

 sinnbo 07-012.JPG



 続く・・・・・・。


  注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


posted by 兵三(ひょうさ) at 07:44| Comment(0) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月13日

8水戸浪士のこと(3)

今庄宿と浪士

 燧より今庄宿に入るには、日野川を渡らねばならないが、「橋長さ30間(54メートル)あり、この橋一本なり。雨降り大なんぎ、夜に入って付る也」とある。(水戸浪士日記)

 当時の小鶴目橋のことと推定される。

 砲車を引き、の手綱を引いた浪士たちは馴れない坂道を越え、凍てつく川を渡らねばならぬ難行軍であった。

 寒さと飢えと披露が容赦なく彼らを襲った。


 さて、燧から旧道を通りめっとり坂を越して小鶴目橋を渡り今庄宿に入ったのは12月9日も夜になっていた。

 翌10日も今庄に滞在した。

 今庄の到着前日、池田方面に大火があり浪士が到着すれば、全村が焼き払われるとのデマが飛んだ。

 このため人々は雪の中を家財道具を持って逃げ、宿は無人であった。

 食もなく、寒さも厳しく浪士たちは怒りにまかせて抜刀し、柱に斬りつけ、障子に落書きした。

 こうして、浪士たちはやり処のない憤懣を紛らわせたのであろう。

 今も数軒の家に刀傷や遺墨が残っている。

 刀傷が残る京藤家
 imajoushuku 09-043.JPG


 今庄宿へは浪士たちの出発後、再び諸藩のの兵が入って警護したが、浪士後戻りの虚報に、武器を捨て、あわてて物置や雪隠(トイレ)などに隠れた話も残っている。

 続く・・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


posted by 兵三(ひょうさ) at 09:55| Comment(2) | 今庄宿の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする