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2010年02月27日

8 水戸浪士のこと(2)

宅良谷の浪士

 峠下の杣木俣では、恐怖におののき言葉に表せないほど驚いた。

 しかし、浪士たち一行は流言飛語や庄屋の布令に反して、その行動は終始整然としていた。

 古木へは12月9日の昼過ぎ先遣隊が到着、まもなく本体もやってきた。

 総勢7〜800人であったから小倉谷、杣木俣にも入り込んでいたであろう。

 浪士たちは疲れていたのか、元気もなかったが、乱暴狼藉をはたらく者はいなかった。

 村では若者17〜8人が人足として、浪士たちに駆り出され、武具や食料などを運搬させられた。

 運搬していった人々の中にはその日の内に逃げるようにして家に帰った者もあったが、中には4,5日も家に帰れず、徴用されて新保(敦賀市)まで行かされ、家では殺されたのではないかと心配していた家もあった。

 また、温谷辺りで休憩した浪士たちの間には、かじかんだ手足を温めるため、雪囲いしてあった薪の束をほどいて土間で燃やし、つし裏の天井へ火がつかないかと、家の人をはらはらさせるほど、大火を燃やして暖をとって行った者もあった。

 しかし、大半はおとなしく静かな通過だったという。


 続く・・・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


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2010年02月20日

8 水戸浪士のこと

天狗党の西上

 江戸時代の終わりの元治元年(1864)、水戸浪士の武田耕雲斎は、天狗党という仲間と、途中から参加したものも加え千余名を引き連れて京都にのぼり、朝廷に攘夷を嘆訴せんと11月1日、国を出て中山道から美濃路を西へと群を進めた。

 ところが幕府は上京させてはならないと、すでに大垣や彦根藩に命じていく手を阻んだので、美濃から蝿帽子(福井県と岐阜県境にある峠)を超えて大野に入り、東俣(池田町)から杣木俣坂(大阪峠)を越して宅良の谷に降りてきた。

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 続く・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。



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2010年02月13日

7活性化する今庄 (2)

町の活性化へ

 積雪地帯という暗いイメージを一新し、活気ある町、若者の来る町にしたいと、町当局は模索した。

 かつて雪は交通の障害となり克雪が叫ばれた。

 しかし、雪国に住む私たちは雪に痛めつけられてきた割には、意外にも雪の利用に消極的ではなかっただろうか?

 昭和56年の56豪雪及びその後にも多雪期が続き、町は各種の大型除雪車や融雪装置などを導入して雪の害を克服してきた。

 さらには、雪の良い面を積極的に利用し、地域活性化につなげないかという利雪の考えが芽生え、議論され研究が続けられた。

 その結果、町の活性化事業の第一歩は昭和63年、鉢伏山(標高762メートル)周辺整備から始められた。

 そして平成2年12月末には町営今庄365スキー場をオープンさせた。

 これには北陸自動車道今庄インターから、国道365号線でスキー場まで30分という利便さが受けて、京阪神、中京方面からのスキー客も年々増加してきた。

 平成3年には地下1200メートルで温泉堀削に成功し、宿泊施設「ロッジ三六五」んも完成した。

 続いて五年には、今庄三六五温泉やすらぎ」館が完成して、ゲレンデからスキー板のまま玄関まで行ける手軽さから人気が出、スキーシーズン後も入浴客が順調に増加している。

 温泉には周辺の史跡を巡り歩いたハイカー達も立ち寄って汗を流す。

 浴場越しに見える何畳山地の山並みやブナの天然樹木、白山連峰のダイナミックな警官は、訪れる人々を魅了している。

 こうした事業と平行して、平成3年からは戦国時代の城址と木ノ芽峠の整備、峠の茶や及び板取宿場・民家の修復が相次いで行われた。

 また、これらの遺産を生かした「歴史の道」も整備された。

 付近には今庄そば道場や広野ダム、青少年育成センターときめき、青少年旅行村、夜叉が池などもあり、自然と歴史のなかで、幅広い年齢層が楽しめる、通年型観光の町として生まれ変わるとしている。



注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


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2010年02月07日

7 活性化する今庄

山村奥地 集落の移住

 北陸線は、昭和37年には北陸トンネルが開通・電化され、41年には敦賀〜福井間が複線化された。

 その影響を受けて今庄駅は特急・急行の通過駅となり、鉄道交通基地としての役割は終わりを告げたのである。

 また、今庄地方は県内屈指のの豪雪地帯として悩まされてきた。

 特に昭和38年、56円の豪雪は記憶に新しい。

 それがまた過疎化の原因の一つともなってきた。

 今庄駅は周辺の湯尾・宅良・堺村を併合し、町制を施行した昭和30年当時は人口8724人を数えたが、20年後の昭和50年には6213人と減少した。

 この間、高度経済成長による商工業の雇用需要、エネルギー革命による薪炭業の不振、豪雪による交通途絶などが打撃となって、高倉・芋が平・山中・大河内・桝谷・板取あどの山村奥地の人々は40年初め頃から移住し廃村となった。

 続く・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。
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2010年01月25日

6 国鉄の町 今庄(4)

北陸トンネルの貫通


 太平洋戦争後、鉄道復興が一段落すると、国鉄は輸送力増強とスピードアップに取り組むようになったが、敦賀〜今庄間の悪路線は北陸線最大のネックであった。

 これを解消するため、新しいルートが設定され昭和32年11月北陸トンネル(13、870メートル)の起工式が行われた。

 予想外の複雑な断層や湧水に悩まされたが、36年7月末に貫通した。

 わずか3年8ヶ月の工期であった。

 今庄の北には湯尾トンネルも新たに掘られ、37年6月10日、敦賀〜福井間の電化が開業した。

 その前日、65年間親しんできた山中越えの敦賀〜今庄間の旧線は、寂しく消えていった。

 「機関車と機関車がまえひき、あとおし。なんだ坂、こんな坂・・・・・」こうした光景も県内では見納めであった。

 途中の継承地杉津の名もいつしか旧北陸線の郷愁の彼方へと去っていった。

 続く・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。


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2009年12月26日

6 国鉄の町今庄(3)

デゴイチの活躍

 山中隧道から葉原隧道を抜けるまで、トンネルの連続であるから蒸気機関車による運転は、乗客も大変だが、それ以上に機関車を運転する人の苦しみは想像を超えていた。

 夏ともなれば汽車の罐熱も加わって、7〜80℃の炎熱地獄ともなり、水に浸した手拭いで顔を覆って通り抜けたという。

 昭和11年、敦賀機関区へ、坂路に威力のある「デゴイチ」こと超大型の蒸気機関車D51型の1・2号が配備された。

 その後次第に増車され、北陸線の坂路線には、D50、51型機がもっぱら活躍した。

 「デゴイチ」は、戦後ディーゼル機関車の力を借りたこともあったが、北陸線が全線電化するまで、貨客の輸送に威力を発揮したのである。

 明治29年、今庄機関庫がもうけられたことは前にも述べたが、その後、転々と名前を変え、太平洋戦争後の昭和22年、今庄機関区が設置された。

 9台の「デゴイチ」が配車され、職員数も130人と増加し、駅、機関区を含めると250人余りという大世帯となった。

 最盛期の30年頃は、「デゴイチ」を中心に大型機関車を20数両も備えていた。

 今庄町役場前にはその記念碑ともいうべき、栄光のSL「デゴイチ」が保存されており、この前に来ると、通勤当時のことが蘇って頭が下がる思いがする。

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 続く……。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。










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2009年12月05日

6 国鉄の町今庄(2)

 今庄駅の開業

 鉄道が福井まで開通した日、今庄駅も運輸営業を開始した。

 「国鉄の町今庄」の誕生の日でもあった。

 駅長以下53名(金ヶ崎駅は52名、武生駅は20名であった)。

 構内には今庄機関区、保線区、保線助手詰所(今の保線支区)が同時に開設された。

 今の今庄駅
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構内に残っている数少ない国鉄時代の遺構
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 今庄駅は北陸線が開通してから、北陸トンネルが完成した昭和37年まで、鉄道最大の難所といわれた敦賀〜今庄間に挑む基地として、なくてはならない存在であった。

 このため、多くの職員と施設などが設置されたのである。

 すなわち、今庄〜敦賀間27キロメートルには、深い山々が続き曲折が激しく、大桐信号所(明治41年大桐駅に昇格)から山中信号所まで、千分の二五の急こう配を一気に駆け上がるという、過酷な坂路線(山線ともいう)であった。


 敦賀〜今庄間には、後に設けられたものも合わせてスイッチバックも四か所設けられた。

 高度をかせぐため、列車を一度後方に引き上げて、また上るのである。

 こうしたことから、今庄で機関車を増結しなければならず、おのずと停車時間も長くなる。

 そこで、北陸線では初のホーム立ち売りがお目見えした。

 弁当をはじめ、新聞、雑誌、名産の葛饅頭、梅肉、柿ようかんなどが売られた。

 また、季節的には鮎ずし、ツグミの照焼なども販売された。

 昭和四年頃になると、アイスクリームや名物「今庄そば」の売店が開設され、夏場にはかき氷も販売されるなど、ホームは大変な賑わいを見せた。


 続く・・・・・。


注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです


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2009年11月21日

6 国鉄の町今庄

 北陸線敦賀・福井間の開通

 わが国最初の鉄道である新橋〜横浜間が開通したのは明治5年(1872)10月14日で、この日が鉄道記念日となっている。

 17年(1884)、長浜〜金ヶ崎(敦賀市)館が全通した。

 わが国最初の鉄道気通から遅れることわずか12年であった。


 26年(1893)4月鉄道庁は敦賀に出張所を開設、ただちに敦賀〜森田間(福井市)までの実測を行い、8月には起工式をあげた。

 敦賀〜今庄間は南条山地が立ちはだかり、難渋を極めた。

 それだけに難工事が予想され、起工式も緊張し悲壮感さえあったという。

 南条山地をくぐり抜けるには、一番長い山中隧道(1194メートル)、次いで葉原隧道など13の隧道があった。

 ことに山中〜葉原間7.2キロメートルの間には、10個の隧道延べ4キロメートルが続くという悪路線であった。

 葉原隧道は硬くて、一日わずか5寸(15センチメートル)しか堀削できないこともあった。

 また、28年7月は悪天候続きで、土砂崩れや洪水で隧道内が埋もれるなど難航したが、28年(1896)7月15日、今庄〜敦賀間が開通した。


 
 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。



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2009年11月15日

明治初期の地方自治(3)

 新村名の選定

 明治二十二年(1889)四月、連合町村制を基礎として町村制が施行された。

 現在の旧今庄町を構成する旧村は下のように編成された。

 湯尾村:湯尾、八乙女、燧、社谷
 宅良村:久喜、長沢、馬上免、古木、杉谷、上温谷、小倉谷、瀬戸、杣木俣
 今庄村:
 鹿蒜村:帰、新道、大桐、山中、二ツ屋
 鹿見村:合波、大門、孫谷、板取、荒井、八飯、宇津尾、桝谷、広野、岩屋、大河内
 
 湯尾村は、各村の中で最も大村なるによる。
 役場は初め妙法寺に置いたが、昭和四年(1929)湯尾第七〇号一四番地に新築移転した。

 宅良村は古来宅良郷と称し、その名も近郷に知られていたことによる。
 宅良村成立当時は役場を小倉谷に置いたが、のち上温谷本覚寺に移し、大正三年(1914)現在の宅良し診療所の地に新築移転した。

 今庄村は旧称そのまま。

 鹿蒜村は、鹿蒜山の東麓にあり、式内鹿蒜神社は住古より崇敬も厚く、鹿蒜の名もまた人々に知られていたことによる。

 なお、三百戸未満の小村は、町村負担の加重をおそれ、近隣町村と組合役場を設置するよう指導があったので、鹿蒜村は今庄村と組合を結成、庁舎は旧本陣後籐覚左衛門宅を借用した。

 のち小学校改築に際し古校舎を、現今庄小学校校地南隅に移築し庁舎とした。
 この庁舎は昭和三十年、新今庄町合併まで存続した。


 鹿見村の村名は、この地域は鹿谷郷と能見ノ庄の二郷からなり、この郷名から一時ずつを採択した。

 しかし、明治二十三年には堺村と改称した。

 なお、役場は初め大門の小学校、駐在所と同じ場所にあったが、明治三十六年(1903)大門二字西村南に移転した。

 ここは平成元年まで農協支所があったところである。

 さらに、昭和十一年(1936)大門八字元田に庁舎を建設移転し、ちょうそん合併まで存続した。

 明治二十三年(1955)四月、四か村が合併して申請今庄町が発足し、昭和会館が庁舎として活用された。

 現在の昭和会館
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 今は公民館として活用されています。


 しかし、事務の機械化、多様化とともに庁舎の狭隘、窓口の不便さなどが生じてきたので、昭和四十九年(1974)国道三六五号線沿いに現在の庁舎を新築し移転した。

 旧今庄町役場
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 南越前町が発足してからは、図書館や役場の支所として活用されています。



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2009年10月28日

明治初期の地方自治(2)

地方自治の始まり

 郡・町村の編成もまた、県の場合と同じく目まぐるしく変わった。

 最初、維新政府は明治4年(1871)これまでの町村という行政区画を改めて、全国的に大小区政を実施した。

 明治6年10月の敦賀県区分表によると、今庄町関係では今庄・堺・宅良・鹿蒜地区などが、第14大区6小区に、湯尾地区の大部分は第15区に区分された。

 大区には区長、戸長・副戸長をおいて、主として戸籍事業を取り扱わせた。

 しかし、大区小区はなじみにくく評判も悪かったので、僅か7年で撤回し、明治11年(1878)に近世以来の町村単位を基礎とした、郡区町村編成法が制定された。

 また昔の町や村が復活したのである。

 さらに明治17年、連合町村制を設けて、大幅な改正が行われた。

 町村の呼び方も役場の所在地に基づいて「湯の尾村外六村」「小倉谷村外五ケ村」などと呼ばれた。

 この時、戸長は民選から官選に改められ、役場も戸長の私邸を使わず新たに連合戸長役場を設けた。

 続く・・・・・。


 
注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からのものです。

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