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2009年09月26日

明治初期の地方自治

福井県の誕生

 慶応三年(1867)、江戸幕府が倒れ、王政復古の布告が出され、翌四年九月八日を明治と改め、明治維新政府による政治が始まった。

 江戸時代には今庄町域は福井領(合波、大門、八乙女、社谷、杉谷を除く全域)、小浜領(社谷、八乙女)、丸岡領(合波、大門)、鯖江領(杉谷)に分かれて支配されていたが、明治二年(1869)、領主たちは土地と人々を朝廷に返上した。

 これを版籍奉還というが、維新政府はそれまでの藩主をそのまま藩知事に任命した。

 明治四年(1871)七月、地方制度の刷新を図るため、廃藩置県を断行し、若狭地方には七県が誕生したが、十一月には今庄町域などの南条郡・今立郡と嶺南地方には敦賀県、そのほかの嶺北地方を福井県とした。

 1ヶ月後の十二月には福井県は足羽県と改称されるなど、目まぐるしく変わった。

 明治六年(1873)、足羽県が廃止されて敦賀県に合併し、現在の福井県に相当する地域は、敦賀県として一つにまとまった。

 しかし、それも三年半ばで分裂する。

 すなわち、敦賀県は明治九年(1876)九月に廃止され、嶺南四郡は滋賀県に、南条、今立てなど嶺北七郡は石川県に吸収合併された。

 当町全域は石川県になったのである。

 現在の福井県がようやく誕生したのは、明治一四年(1881)のことである。


 続く・・・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。


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2009年07月11日

今庄宿の繁栄(その4)

 幹線路の変更

 慶応3年(1867)に江戸幕府が大政奉還し、近世の宿場駅も明治5年(1872)に廃止されて、宿駅の問屋は民間の運送会社に移行した。

 また、宿駅の特権は失われ、明治時代前半、宿場町は衰微した。

 ことに今庄宿の場合、大きな打撃となったのは、幹線道路の変更であった。

 急坂の多い峠があり、冬期の多雪に難渋した北陸道や北国街道を避けて、雪の少ない平坦な道が要求された。

 明治21年(1888)、敦賀湾の東浦海岸に沿って大良(旧河野村)を経て、春日野峠をトンネルで抜け武生に至る、新国道(現国道8号線)が開通したからである。

 この海岸を通る国道は、従来の人・馬から人力車・荷車へと交通手段が作新されたことに対応したものでもあった。

 ところが幸運なことに、8年後の明治29年(1896)、北陸線の敦賀〜森田(福井市)間が開通し、街に再び活気が戻ってきたのである。

 続く・・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。


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2009年06月07日

今庄宿の繁栄(その3)

 今庄宿の繁盛

 江戸中期の亨保十年(1725)頃から、宿駅の往来はますます盛んとなり、今庄宿は賑わった。

 寛政期(1789〜1801)のある旅日記には「今庄の駅に着くと、ここは北国の街道ということで、茶店には田楽(豆腐)・煮物・蕎麦などが売られ、道には呼び込みの女達が騒々しく、休まんせ、泊まらんせなどと、少し京なまりも混ざった言葉のおかしさ・・・・・・」と今庄宿の情景を書いている。

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 今庄で生まれた踊りに「羽根曽踊り」がある。

 これは十世紀の初め頃、今庄西方の藤倉山腹の藤勝寺の寺で舞われた稚児舞が起源と伝えられているが、宿場町が栄えるにつれて、盆踊りとなり、街道を通る旅人旅情を慰めという。

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 情緒豊かな踊りで、旅人達も加わって踊ったそうで、現在の踊りに見られる武士、町人、女中、百姓などの変装は当時の名残である。

 今庄宿の戸数は江戸時代前期の天和三年(1683)で240軒。

 幕末の天保年間(1830〜1844)の記録では、戸数290余軒、町屋として旅籠屋55軒、娼屋2軒(遊女9人)、縮緬屋2軒、鳥屋14軒、問屋3軒や伝馬所、高札場などがあった。

 今庄宿は寛政、文政、天保の大火など、七度の災害を受けたが、今も昔風のしっとりした家屋が軒を連ね、街並みは宿場町の面影をとどめている。

 山本周五郎は晩年の名作「虚空遍歴」で今庄を「おれもできることなら、この町で死にたいものだな」と書いている。


 続く・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。

 
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2009年05月30日

今庄宿の繁盛(その2)

本陣と脇本陣
 

 福井藩の本陣は後藤覚左衛門家(現公徳園)、加賀藩の本陣北村新兵衛家(現昭和会館)をはじめ旅籠屋は繁盛を極めた。

 とりわけ後藤家は、大庄屋職を務めると共に今庄宿の本陣を兼ね、福井藩から十石の扶持を受ける準藩士であった。

 福井藩のみならず、丸岡、鯖江藩など人馬取り仕切りを統括していたので、参勤交代時などは極めて忙しかった。

 このほか、将軍の代替わりには巡見使の廻国があった。

 巡見使の入国は諸般にとって最も重要な事項であったから、宿泊・接待など気を遣うことが多かった。

 一方、宿駅付近の農民は助郷役などの扶役や保持人馬の徴発などで苦しんだ。

 ことに参勤交代など、大がかりな大名行列や、幕藩重臣らの公用旅行が、とかく農繁期に集中し、助郷村々の農民の負担は計り知れないものがあった。

 鯖江藩主間部詮勝(まなべあきかつ)の参勤交代の折、今庄に割り当てられた助郷の村は五二村に及び、中には今庄から三〇キロも離れた越前海岸の村々まで含まれていた。


 本陣跡に建つ明治殿
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 脇本陣跡に建つ昭和会館
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 旅籠(若狭屋)
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 続く・・・・・・。


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2009年05月10日

今庄宿の繁栄

北国街道の大宿駅


 今庄は、古くから南条山地の三つの峠越えの北陸道(西近江路)、北国街道(東近江道)の全てがここに集まり、福井県でも最も重要な宿場町として発展した。

 宿場としての今庄が形成され始めたのは中世に入ってからである。

 近世に入ると北国街道は、越前を縦貫する幹線道路として往来が頻繁になり、今庄は宿場として完全な形を整えるようになった。

 今庄を起点として朱kばを訪ねると、北の庄(福井)の城下までに湯尾、鯖波、脇本、今宿、府中(武生)、上鯖江、水落、浅水の八駅があった。

 江戸時代の旅行者は1日の旅程として女は八里、男は十里を見込んでいた。

 福井から今庄までは約八里(31.2km)だったから、福井を早朝に出立した旅人の多くは今庄に宿泊することになった。

 亨保十年(1725)の「改郷村高帳」による駅馬数は福井三二疋、金津三〇疋、府中二五疋につぎ今庄宿は二四疋を常備する大宿駅であった。

 奥の細道の旅で北陸路を通った芭蕉も、元禄二年(1689)八月一三日夜、先行の弟子曽良も今庄宿で泊まっているので、おそらく芭蕉も一泊したとみえ、「義仲の寝覚めの山か月かなし」の句を残している。

 なお、芭蕉は洞哉と八月一四日の夕方敦賀に着いているので、木ノ芽峠を越えたであろうと言われている。


 続く・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。


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2009年05月01日

今庄周辺の交通路の変遷(その2)

 国道・自動車道の開通

 
 昭和37年に北陸トンネルが完成し、北麓本線の電化・複線化が福井まで進むと、機関車付け替え業務は全面廃止され町は一時衰微した。

 昭和49年、近世の北国街道が拡幅改修されて国道365号線に昇格し、昭和52年には北陸自動車道の今庄インターチェンジが開設されるなど、道路交通が大幅に改善され、関西・中京方面との時間的距離は著しく短縮された。

 敦賀・福井・武生への近距離の通勤・通学はマイカーや北陸本線のJRの3駅(今庄、湯尾、南今庄)が利用されている。

 関西・中京方面の商用や観光には、電車と共に北陸自動車道が利用されるなど、交通パターンの変容が見られる。

 また、道路の改善で外来客数も年々増加している。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。













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2009年04月04日

今庄周辺の交通路の変遷

山中峠越え

 古代の北陸官道は、初め敦賀から海岸にまで突き出た南条山地の山脚部を上り下りして、五幡・杉津・大比田を通り、山中峠(398m)を越えて鹿蒜駅家(かひるうまや、現在の帰:南今庄付近)を経て今庄に達した。

 万葉集に「み越路の、雪降る山を越えむ日は 留れるわれを懸けて偲ばせ」(笠金村)や「可蔽流廻(かへるみ)の 通ゆかむ日は五幡の 坂に袖振れわれをし思はば」(大伴家持)などの歌があり、山中峠越えが「万葉の通」と言われるゆえんである。

 今の山中峠への入り口
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 林道を上っていくと・・・・・、
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 道は人が入らなくなったせいか荒れています。
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 杉林の中に立つ電信柱がここに人の往来があったことを物語っています。
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木の芽峠越え

 平安初期の天長七年(830)、木ノ芽峠越ええの新道が開削された。

 山中峠は行程が全体として楽であったが、時間的にロスが多かった。

 木ノ芽峠は二四〇メートルほど高いが、敦賀から今庄へ抜ける最短路として選ばれたのであろう。

 「万葉集覚抄」には両道を評して「五幡越えは杉津へいづ、木ノ辺(木ノ芽)越えは敦賀の津に出る也、木ノ芽辺はことに嶮しい道なり」と記している。

 平安時代から中世には、木ノ芽峠がもっぱら用いられた。
 「古代・中世の北陸道」と呼ぶことが出来るであろう。

 なお、重量物やかさの高い荷物などは、府中(現武生)から越前海岸の河野・今泉を経て敦賀に至る西街道が馬借たちによって輸送もされた。

 木ノ芽峠のすぐ手前にある笠取峠。
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 木ノ芽峠の下にある板取宿
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栃ノ木峠越え 

 天正六年(1578)以降は、信長の安土城参勤の最短路として、柴田勝家が整備した栃ノ木峠越えが北陸道の幹線になった。

 「近世の北陸道」と呼ぶことが出来る。ただ、木ノ芽峠も利用された。

 近世に入って、木ノ芽峠越えの西近江路が公道と定められ、「北陸道とされたのに対し、栃ノ木峠越えは「北国街道」と呼んで紛らわしさをさけた。

 また、西近江路に対し、東近江路とも呼ばれた。

 近世には、今庄宿をはじめ、峠下集落の湯尾、板取、二ツ屋は宿場として賑わった。

 滋賀県との県境から望む福井
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 栃ノ木峠の由来は、ここに多くの栃の木があったからだそうです。
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北陸本線の開通 
 
 近世に入って、北陸本線のうち敦賀〜福井間が、明治二九年(1896)七月一五日に開通し、この日に今庄駅も開業した。

 今庄から敦賀へは南条山地の難所を通らねばならず、全ての列車は機関車付け替えのため、今庄駅に停車した。

 駅売りも盛んで大変な賑わいをみせ、近世の「宿場町今庄」は「国鉄の町今庄」としてよみがえった。

 広い空き地が昔ここに機関区があったことを想像させます。
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 ここに唯一残る蒸気機関車の機関区があったことを想像させる給水塔と石炭貯蔵場です。
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 今では普通電車しか止まらなくなりました。
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 続く・・・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。

 










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2009年03月28日

北国の玄関口 今庄

 北国の玄関口


 今庄は福井県のほぼ中央部にあり、山中峠(389m)、木ノ芽峠(628m)、栃ノ木峠(538m)の三つの峠をもつ、南条山地以北の最南端に位置している。(他にも高倉峠があります)

 木ノ芽峠へと延びる街道

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 峠の近くに建つ言うな地蔵

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 木ノ芽峠に建つ茶屋
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 越前若狭の国境は敦賀半島であるが、実質的には越前から越後に及ぶ「越の国」の南端の喉もとに、今庄はある。

 古代官道の北陸道から、近代に入っての北陸本線、北陸自動車道に至るまで、北陸の幹線路は、国道8号線を除いて、全て三つの峠か、その間を越えている。

 更に三つの峠越えの道は、全て今庄に集まり、古来、今庄は北陸と京、越前と若狭を結ぶ北国の玄関口として、「交通の歴史」と共に生きてきた町である。

 今庄が交通の要衝という性格は、ここが北陸道有数の難所を背にしているからと言う、地形的特質に由来している。

 古代から北陸官道が今庄を通ることがなかったなら、また、敦賀港や国府(旧武生市)のルートから外れていたら、今庄は辺境の山村として終始していたのかも知れない。


 続く・・・・・・・。


注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。



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2009年02月08日

今庄の歴史(その2)

 北国街道(栃ノ木峠越え)は江戸参勤には最短距離で、越前拡販は必ずと言っていいほど今庄宿を利用した。

 江戸時代中期以降は、商用や京への寺参り、伊勢参りなどで旅人の宿泊が急増し、宿は繁忙を極めた。

 この頃の旅人は1日の旅程として、男は10里、女は8里を見込んでいた。

 福井から今庄までは約8里であるから、福井を早朝に出立した旅人の多くは今庄に宿泊することになった。

 天保年間(1830〜44年)には戸数290あまり、うち旅籠屋55軒、茶屋15軒、娼屋2軒、縮緬屋2軒、鳥屋15軒などがあった。

 今も昔風の家屋が軒を連ねる街並みは、その長さや道の形や、短冊形の屋敷割りが殆ど変わっていないこともあって当時の宿場の面影をとどめている。


 続く・・・・・・。

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2009年01月31日

今庄宿の紹介

 今まで今庄宿が歩んできた道のりを書き綴ります。

 このサイトを訪れる人に、現在の今庄が分かり、これからの今庄が見えてくるようなサイトのなればと願いながら・・・・・・・。



 近世の大宿場町 今庄・・・・北陸への旅は今庄より始まる

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 古くから幾重にも重なる南条山地は北陸道の難所で、山中峠、木ノ芽峠、湯の尾峠、の何れかの山越えの道を選んで今庄に至り、京・江戸へ行き来する人々が最初に宿泊したのが今庄宿である。

 今庄は江戸時代を通じてもっとも栄えた宿場町であった。

 初代藩主 結城秀康は、北陸道を整備したが、この時今庄については重要な宿場として計画的に街をつくらせた。

 文化年間(1804〜1818)には、街道に沿って南から北へと上町、観音町、仲町、古町、新町の5町があり、その街並みは約一キロメートルに及び、家屋が櫛の歯のように建て混んでいた。
 仲町には、福井藩、加賀藩の本陣や脇本陣、問屋、また多くの造り酒屋や旅籠屋が集まり、高札所(旧今庄小学校跡地)があり、宿馬は福井・府中の25匹に次いで24匹を常備していた。





 
 





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