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2012年08月23日

旧堺小学校(現民俗資料収蔵庫)

 国道365号線を敦賀に向かって走っていくと、今庄そば道場の前に旧堺小学校の建物が残っています。

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 でも今はその看板も取り外されて「民俗資料収蔵庫」という名前に変えられています。

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 校舎の前には昔はどこにでもあった二宮金次郎の像が建っています。

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 あまり勉強はしなかったけれど、いつでも、どこでも勉強はできるということを教わった記憶があります。

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2012年08月08日

赤座氏館跡

  室町時代の守護斯波氏に仕えて南条郡新道に館を構えていた赤座氏の館跡が今も残っています。

 今では杉林の中に隠れてしまっていますが、ちょうど小高い丘の上にあって当時は見晴らしがよかったところだと思います。

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 その場所に行くには畑の中を通って行かないといけません。

 がその場所を今も守っておられる人が近くに集落におられます。

 その人の庭にも五輪の塔が残っていて、その館の大きさは相当なものだったことがうかがえます。

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 畑の中の道なき道を進んでいくと・・・・・、

 林の中に突然現れます。

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2012年07月14日

上野ヶ原古戦場跡

 あまり知られていないと思いますが、湯尾峠を上るあたりに上野ヶ原の合戦がありました。

 時は鎌倉時代から室町時代に変わろうとするとき。
 鎌倉幕府を倒して建武の親政を行われた後醍醐天皇が、足利尊氏の謀反によって失脚。
 恒良親王を擁し、新田義貞らが金ヶ崎城に拠って再挙を図った。
 瓜生保らは義貞に加担し足利高経の軍と各地で激戦を繰り広げたが、義貞は燈明寺畷(なわて)で、保は樫曲で戦死した。
 劇乱の時代であった。
 この争乱で延元元年(1336)11月23日、瓜生保は湯尾を除く周囲4,5里の間の宿を一軒も残さず焼き払い、高師泰の軍を湯尾に誘い込んだ。
 大雪の中をやっとたどり着き、寝込んだ敵軍に夜襲をかけ、湯尾峠の要害を争って、ここ上野ヶ原で一大決戦が行われた。
 この戦いで生け捕り300人、打たれたもの数知れず、ようやく逃げ延びたものも武具を捨て、弓矢を持つ者は一人もいなかった。


 今では何事もなかったかのように家や畑が広がっています。

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2010年06月19日

11 藤倉山と鍋倉山

七堂伽藍のあった藤倉山山麓

 JR今庄駅から前方を望むと、岸壁もあらわに高く聳える藤倉山(標高643m)とその右に鍋倉山(516m)が見える。

 この両山の山麓や谷間一帯にはブナの樹林が繁茂し、そこには七堂伽藍と千坊があったと伝えられている。

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 それを証左する記録・資料はきわめて少ないが、「日本大厄神三社欟迹畧縁起」によると、「藤倉の記」(藤原雑記とも)という古書があり、それには醍醐天皇の延喜十五年(915)に神帰山光明聖寺の勅号を賜り、南院を藤倉院、またの名を籐勝寺ともいい、党衆多しと記されている。

 さらに西院を鍋倉院、またの名を阿弥陀院ともいい、東院を孫嫡子庵と称した。

 寺仏に関しては藤勝寺は薬師如来、藤倉院は阿弥陀如来、孫嫡子庵は如意輪観音を本尊として、それぞれ本堂に安置していたという。

 また、藤倉院と鍋倉院の中間の谷あいには大乗山清心寺があったといい、付近一帯には五輪塔墓が散乱している。

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 藤倉山から鍋倉山の山麓にかけて、天台宗系の諸院が立ち並ぶ姿は圧巻であったであろう。

 諸院の廃退した自由は分からないが、一説には比叡山延暦寺との抗争により、破却したというが、それらに関する過程については詳らかではない。

 ともあれ、両山を含む山麓一帯は聖なる地として、昔から崇拝されてきた。

 しかし、大懸崖の麓であるから、長い間に崩壊した土石によって、遺跡の多くが樹林の地下に、深く埋没したのではないかといわれている。

 山ろく周辺には、仏谷、奥堂谷、堂谷などの小字名が残る。


 続く・・・・・。



  注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からの引用です。


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2009年09月12日

今庄の街並み

 文政の道しるべ


 栃の木峠越え(北国街道)・木ノ芽峠越え(北陸道)の追分塚にたてられた道しるべである。

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 文政13年(1830年)大黒屋由兵衛が世話人となってしゃく谷石で建てられた。

 笠木があるのは県内でも珍しく、貴重な文化遺産となってる。

 高さ2メートル、約30センチメートル角で、頭部が火袋になっていて火が灯された。

 それ以前は木製であった。

 石柱には「右京 つるが わかさ道 左京 いせ 江戸道」と刻まれている。

 

 続く・・・・・・・。

posted by 兵三(ひょうさ) at 07:29| Comment(0) | 史跡・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月19日

道しるべ

 今庄宿の南の玄関には道標が建っています。

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 以前は木造でしたが、文政13年(1830年)大黒屋由兵衛が世話役となり、しゃく谷石で建てられた。

 石柱の頭の部分に火袋があるのは珍しい。

 石柱には以下のように刻まれている。

  右京  つるが(わかさ道)

  左京  いせ 江戸 道

  夏草や ありがたき
   
   世乃志るべ石
 













posted by 兵三(ひょうさ) at 03:49| Comment(0) | 史跡・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする