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2016年07月06日

家屋の取り壊し(鶴屋)

 町から人がいなくなって歴史ある家が取り壊されて行きます。

 今庄は雪国なので人が住まなくなればその痛みのスピードは早い。

 中でも由緒ある鶴屋が取り壊されました。

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 この旅館は小説家である山本周五郎さんが愛した旅館で、彼の書いた小背にも出てきます。


 その家が管理する人がいなくて取り壊されました。

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 取り壊されたその跡地は思ったより狭いものでした。
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 こうして歴史ある建物が取り壊されて行くのは見るに忍びないですが、これも時の流れでしょうか。

 この後地が有効に利用されればいいのですが・・・・・。





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2010年04月10日

9 京藤家住宅

 卯建(うだつ)をあげた屋根

 今庄の伝統的な町家からなる街並みは、その多くは明治以降のものであるが、その中にあって京藤家住宅は、塗籠(ぬりごめ)の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上に上げた卯建によっってひときわ異彩を放っている。
 江戸時代に裕福な家でなければ卯建を上げられなかったので「うだつが上がらぬ」という言葉が生まれたという。

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 当家には文政元年(1818)の火事見舞控え帳が残っており、当住宅はその後の天保年間(1830〜1844)に建てられたものと推定されている。

 一般に町家は敷地間口いっぱいに建てるが、京藤家は母屋の左に前庭をとり、奥に座敷を配した本陣の形式をとっている。

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 屋根は瓦葺きの切妻で、母屋の両端に卯建をあげている。
 棟には煙出しの越屋根をのせ、変化のある外観を演出している。
 瓦は赤みが強く、越前瓦の中でも相当古そうに見える。

 一階の庇もやや小ぶりながら同じ瓦で葺かれており、越前の町家で一般的な厚板を二枚重ねにして「笄(こうがい)」と呼ぶ角材で押さえる方法を採っていない。

 外壁を塗籠(ぬりごめ)とした防火建築であるために、庇も不燃材で葺く必要があったためである。

 二階正面の壁は全面に虫籠格子を建て、窓と壁面との差を意匠的になくしている。
 登梁の間隔は五間(約9メートル)野間口を六等分している。
 
 壁の両端には袖卯建(そでうだつ)を設け、袖卯建は正面だけでなく、背面にも設け延焼防止の徹底をはかっている。
 一,二階とも外壁には塗籠にしている。

 全体に材料、仕上げともかなり質が高い。
 特に座敷の造作はひかえ目ではあるが、書院や天井に意匠をこらしたあとがうかがえる。

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 なお、幕末に水戸浪士の一行が立ち寄ったとの伝承がある。



 続く・・・・・。


 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」からの引用です。



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2009年09月06日

今庄宿の町並み

 宿の中心・仲町

 江戸時代、間口が狭く奥行きの深い、町屋敷特有の短冊型の屋敷地が街道に沿って、東側九九軒、西側九一軒が並んでいた。

 町ごとの件数では上町六四軒、観音町二四軒、仲町四一軒、古町三〇軒、新町一軒があった。

 間口が狭いのは、表間口に対して課税されたからで、今庄宿の場合、間口四間(約7.2メートル)から五間(メートル)、奥行き二〇間(360メートル)前後が一般的であった。

 そのなかで仲町とりわけ西側に規模の大きな家が多く、18軒の家並みのうち11軒が間口6間(10.6メートル)以上あった。

 ことに本陣の後藤家は、間口十間(18メートル)、奥行き三十七間(66.6メートル)もあり、敷地は約138坪あまり、14〜15の部屋数を持つ大邸宅であった。

 このように、宿の中心は南北約250メートルにわたって続く仲町で、道幅も周辺部の2〜3間(3.6〜5.4メートル)に対し、約5間(9メートル)に広げられている。

 ここには本陣・脇本陣をはじめ、問屋が集中しており、制札所も近くにあり、宿場の核をなしていた。

 街道は宿場南端の入り口で北西に向きを変え、上町通りにはいると、前後の見通しは完全に遮られるようになっている。

 宿北端では新町の2カ所で急激に屈折し、これも前後の見通しがきかなくなっている。

 これは関ヶ原の戦いの後、越前国主となった初代福井藩主・結城秀康は、北陸道を整備したが、このとき今庄は重要な宿駅として、防御を配慮して計画的に町並みを造らせたことにようものである。


  続く・・・・・・。

posted by 兵三(ひょうさ) at 08:47| Comment(0) | 今庄宿の街並み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月08日

今庄宿の街並み

 街道に沿う街並み

 今庄宿は、西谷川による扇状地性低地に発達し、その扇端を日野川の氾濫原が横切っていて、街道に沿う街並みは、それよりも2〜8メートル高いところに位置している。
 街並みの中では仲町が最も高い。

 江戸時代には南から北に、上町、観音町、仲町、古町、新町と西の山麓に西町があった。

 これらの町名は明治7年(1874)の大小区の改正によって伴って行った市街地の地名改正で愛宕町(観音町、上町)、白髭(仲町、西町)、藤倉町(古町、新町)の3町に改められた。

 今庄宿は約1060メートルにわたって家屋が、櫛の歯のようにぎっしり並び、見事な街並みを形成しており、その景観は今もあまり変わっていない。
  
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 注)この文章は、山本勝士さんが書かれた「福井県 今庄の歴史探訪」ものです。









posted by 兵三(ひょうさ) at 06:29| Comment(0) | 今庄宿の街並み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする